アンケートによると43.7%が一人で映画を観るので、安心してよい
一人で何かをしているのが恥ずかしいみたいなのは、同調圧力の強い中高の時ならまだ理解できないこともないですが、大人になってからこれは恥ずかしい。便所飯とかと同類でしょう。
一人で映画を観られないのは別に可愛くない
女は何もできない方が可愛い、みたいな価値観は数十年前ならばあったかもしれないし、今も男尊女卑社会に適応した一部の人たちのあいだでは当たり前なのかもしれないが、現代人の感覚では普通に人格障害か精神の病を抱えているかにしか見えません。それに、何もできない女性によってくるのはろくでもないDV気質の男かもしれませんよ。普通は趣味が多くて自分の世界を持つ女性の方がモテます。
アンケートによると、半分弱が映画を一人で観る
たまたまネット上で見つけた1200人を対象にしたアンケートでは、映画を一人でみると答えた人の比率は43.7%でした。10代だけやや低いですが、あとは世代の差はほとんどありません。今時映画を一人で観るなんてのは当たり前なのです。
世の中の人は赤の他人の行動に興味を持っていない
自分が誰かと映画館に行ったときのことを思い出してみて、一人できている人がどれだけいたか覚えていますか?私もよく映画館で映画を観ますが、一人の時は多少手持ち無沙汰で周りの客層を見ることもたまにはありますが、友人や恋人と来ているときはそんなことは全く気にしませんし、目に入っても一瞬で忘れてしまいます。
他人は自分の行動に興味を持っていません。他人の目が気になるのは自分を映画スターとでも勘違いした自意識過剰さの表れです。行き過ぎると精神の病に至る可能性もあるので、注意が必要です。
そもそも独女時間なんて言葉を作る必要はない
女性が一人で自分の時間を楽しむことなんて当たり前のことじゃないですか。当たり前のことに名前をつけて、特殊なことであるかのように仕立て上げるのはいらぬ不安を煽る悪徳コンサルみたいなやり方ですね。リケ女にしろ、起業女子にしろ、女子アナにしろ、女であることが特別であるみたいなのは早く淘汰されるべきです。
映画の途中で入退場する方が人の迷惑になる
便所飯もトイレの個室を長時間占領するという意味で実害を出していましたが、一人で観ていると思われるのが嫌だから映画の途中で入退場するのははっきりと迷惑だし、人の集中力をそぐし、余計目立つだけでしょう。
こういう空気を読めないことをしているから一人の時間が多くなってしまうのでは、とすら思ってしまいます。
そもそもデートに映画は向いていない
相手と会話することができない映画がデートの定番になっているのは、緊張して間がもたない初デートとか10代の恋愛とかそういうのなので、デートで積極的に映画に行く必要はないし、行くならば小規模なシアターでお酒を飲みながらゆるく見れるような場所がいいでしょう。ちなみにそういうところは一人で観ている人もたくさんいますよ。
恋愛工学って単なる依存症ではないか、という疑問
藤沢数希氏の恋愛工学はインターネットを賑わせることには長けていて、読んだことのない自分でもなんとなく内容を知っています。それだけ話題になり、実践しているフォロワーも多いんでしょうね。
さて、その肝心な内容は上記のインタビューを参照すると、いかにコストパフォーマンスよく一線を超えられるか、ということ。とにかく数が多いほど勝ち組という単純な価値観。シンプルな人生を送られているようで羨ましいのですが、女性にモテることって本当に数の問題なのでしょうか。
成功率も大事じゃないの?
例えばこの記事の中でも本人が言っていますが、100人にアタックして20人にOKをもらう、というのは成功率が20%ということ。20人の女性を知っているということは、そこだけをとれば確かにモテてるように感じますが、例えばこれまでに10人に告白して8人からOKをもらった人は成功率80%です。どちらがモテているかは、価値観によるんじゃないでしょうか。
異性と長く付き合うのも恋愛の技術
ワンナイトだけのお付き合いと、しっかりと一人の女性と長く付き合うのは全く異なる技術。人生は結婚したら上がり、というわけではありません。そこから長い結婚生活が始まります。リア充でモテて彼女が途切れたことがない人ほど、20代のうちに結婚するものです。恋愛に満足したあとは、子育てという次のステップにいくのです。まあ、中年になってから10代20代のコンプレックスを解消しようとするのは悪いことではないです。勝ち組かどうかは別として。
周りから顰蹙を買うことを恐れなければ、恋愛工学式モテはそれほど難しいことではないのでは。
独身で、ある程度経済的余裕と社会的地位があって、頭の中がその事で埋め尽くされていて、恥という概念を捨てていて、シンプルな価値観を盲信できるのなら、35億いる女性の中から数十人と関係を持つことはそう難しいことではないでしょう。とにかく数を打てばいいのですから。まあ、モテないまま大人になって泥沼不倫をするよりはカラっとしていてマシだと思います。
恋愛工学はロボットになることを求める
恋愛工学は、コストパフォーマンスを求めた結果として、ルーチンワークに徹することを求めます。同じデートコース、同じ店、同じ口説き文句。ロボットでもできる。AIに学習させて、イケメンの頭にインストールさせればいくらでも女性と関係を持つことはできるでしょう。そんなことをして、何の価値があるのか。いや、確かに一般的な価値観としては価値はあるでしょうが、それ以上にデメリットも大きい。それを感じない、倫理観をモテないロボットの哀しい恋愛方法こそが恋愛工学なんでしょう。
「世界一のクリスマスツリー騒動」と気仙沼ニッティングに見る糸井重里の本質
糸井重里、恥ずかしながら昔イトイジュウリだと思っていました。
今回のクリスマスツリー騒動とは?
今回世界一のクリスマスツリーを神戸に建てるというので、地方の山奥にひっそりと生えているあすなろの大木を引っこ抜いて神戸まで持ってきて、世界一のツリーとして飾り立て、最後にはその木材を商品にしようというもの。
これだけだとまあ、商売上手だなあと思うけれどそこまで炎上しなかったと思います。
では、今回の炎上の理由は?
今回、炎上した理由はそこに物語をつけたこと。
人知れず氷見の山奥にひっそりと自生していた落ちこぼれの木が、この瞬間に世界一輝く、夢と希望に満ちあふれた象徴の木となるのです。
木を勝手に落ちこぼれと決めつけたことや、そのシンデレラストーリーの身勝手さが炎上しました。
また、この炎上を受けて、糸井さんはTwitterでこういうツイートをしています。
冷笑的な人たちは、たのしそうな人や、元気な人、希望を持っている人を見ると、じぶんの低さのところまで引きずり降ろそうとする。じぶんは、そこまでのぼる方法を持ってないからね。
— 糸井 重里 (@itoi_shigesato) 2017年11月15日
これに対し「いや俺たち本気で怒ってるんだけど」とさらに批判が殺到しています。
糸井重里はこれまで何をビジネスにしてきたか
糸井重里といえば、一般的にはジブリのキャッチコピーやほぼ日手帳など、リベラルで物語性に満ちた、単なる商業主義とは違うおもしろいものを世に送り続けてきた人。
たとえば一時期話題になった気仙沼ニッティングでは、震災復興と過疎地での職の創出というストーリーで、地元の編み子さんたちが手縫いした一着15万円もするセーターを完売2年待ちになるまでに成功させました。
一方で、気仙沼ニッティングがモデルにしたイギリスのアランセーターには、ファッション業界では有名なインバーアランというメーカーがあります。本場のスコットランド製で職人たちのハンドメイドで価格は6万~7万。舶来の最高級品です。ファッション業界では海外ブランドを日本に輸入する際にガッツリ価格を上げることが当たり前になっているので、本国で買えばもっと安いのではないでしょうか。
つまり糸井重里のビジネスとは
インバーアランを知っている人からすれば、ほぼ2倍の値段がする気仙沼ニッティングは随分割高に思えてしまうし、よっぽどのお金持ちでない限りこの差は大きいでしょう。
じゃあ何に価値があるのか、というとやはり物語性。気仙沼ニッティングのもつ物語に、より多くのお金を払っているわけです。つまり、この物語の良し悪しが糸井重里のビジネスの生命線だと言えるでしょう。
世界一のクリスマスツリーは物語の出来が良くなかったかも
今回のクリスマスツリー、糸井重里のファンからも批判が多いようですが、その理由として自生している木をわざわざ抜いてくることはない、というのがあります。人間が植林をして大切に育ててきた木を同じようにするのなら、小学校の食と生命の教育で育てた家畜を食べるみたいに問題提起にもなったのでしょうが、今回のはわざわざしなくていいことをして、周りがそれに眉をひそめたら問題提起になって結果オーライ、と言っているように感じてしまいます。
続報あり!
やはり、移植は難しいようですね。ツリー後の伐採は未定ながら、おそらくされそうな雰囲気です。そもそも、このあすなろの木は奇跡でもなんでもなかったようで、記事中で説明される主催者の声明では、
「年間何千本という富山県の森林組合が出荷している里山のなかの一本であり、それがたまたま他の用途ではなく、今回のクリスマスツリーになった」
と炎上した挙句に物語の嘘を自ら暴いてしまっています。これはいけませんね。安感動で商売しようとしていたことを明らかにしたも同然。これでは残念ながら問題提起ではなくて、炎上商法に見えてしまいます。
そもそも、社会的な問題提起なんて、それこそ凶悪犯罪者だってできます。こんなの言ったモン勝ちの世界。
大事なのはその方法なんですよ。聴衆の納得がいかなれけば、提起する側の問題に目がいってしまい、問題提起としては失敗です。
なぜ男は相手の気持ちを察することが苦手なのか?その3つの理由を解説
男女の性格の差や得手不得手はありそうに思えるけれど、実際に科学的に証明されたわけではなく、単なる印象論でしかないかもしれない。でもやっぱりありそう!と思ってしまうのは何故か、この記事でわかりやすく解説してみましょう。
そもそも、同性の気持ちは異性よりも察しやすい
上の記事を書いた人が男性か女性かわかりませんが、そもそも異性よりも同性の気持ちの方が察しやすいのは誰もが感じるところ。なぜかというと、単純に境遇が似ているから。境遇が似ているほど、相手がどんな感情でいるのかは察しやすくなる。自分が同じ立場の時にどう思うのかを参考にすることができるから。
ということで、男性は男性同士。女性は女性同士の方がお互いを気遣いしやすくなります。今では死語になりかけている飲み二ケーションがそうだし、女子会もそう。同性同士で盛り上がれるのは、コミュニケーションの中ではわりかし簡単なのです。
異性の気持ちを察する能力は男性と女性どちらが高いのか
逆に言えば、異性の気持ちは察しづらいもの。異性の気持ちを察する能力は、男性と女性どちらが高いのでしょうか。これは一昔前なら女性の方が高かったでしょう。男尊女卑社会では、家庭内でも妻は夫を気遣い、立てて、尽くすことが美徳だった。ホステス役を対等な関係でも引き受けていたわけです。もちろんその代わりに男は男社会の中で気遣い精神をすり減らして稼いできていたわけですが。
また、実際は家庭内でも妻の方が上ということも多かったでしょうが。どちらにしろ、社会では女性はお茶くみに象徴されるように、男性のサポート役だったわけです。
ただし、今の20代30代ではそういう風潮は随分となくなったでしょう。男女平等な関係では、どちらかがどちらかを一方的に察さなければいけない状況はなくなる。
先天的には男女差よりも個人差の方が大きい
つまり、後天的な環境によって察する能力は伸びていきます。ということは、ほとんどのジェンダーの話題と同じように、男女差よりも個人差の方が大きいのではないかと思います。ただし、人の気持ちを察するのが苦手とされる発達障害のある比率は男の方が有意に高いことがわかっています。
恋愛関係において、相手の気持ちを察する必要があるのは男
恋愛関係においては、外見的魅力は女性の方が基本的に上なので、男は行為でその差を埋め合わせる必要があります。つまり、相手の気持ちを察し、喜ばせる必要がある。男はもっと即物的に女性を求めます。デートの予定を考えたり、プレゼントを考えたりするのは男という意識はまだまだ根強い。結果として、相手に求める察する能力のハードルは女性よりも男性の方が高くなります。男の方がハードモードなんですね。
試しに女性に、男を喜ばすデートやプレゼントを考えてもらうといいでしょう。多くの場合的外れになると思います。そう、お互い様なのです。
だけれど、現実としては女性が男性に求める察する能力のハードルの方が、男性が女性に求める察する能力のハードルよりも高い。そのハードルはおそらく同性同士のレベルを求めているのでしょう。つまり、女性同士のレベルで察することができれば、男性は女性にモテるようになります。
まとめ
これまでの解説をまとめると、以下のようになります。
・男女共に異性の気持ちを察するのは同性に対してよりも苦手
・男尊女卑社会では社会的地位の低い女性の方が察さなければいけない場面が多い
・恋愛関係において、女性の方が異性に求める察する能力のハードルが高い
人を察する能力は、才能以上に努力で伸びていくもの。地道にコツコツ相手への気遣いを身につけていけたらいいなーと思います。
「むしろ電柱があった方が美しい」という俺センスある自慢
電柱を地中化した方がよいか、しなくてもよいのかは災害大国日本ではシビアな問題なので、素人が口出ししても仕方ないのですが、現状として電線地中化は主に美的感覚、つまり景観の美化のためにおこなわれています。日本の各地の伝統的な町並みでは電線地中化が進められているし、東京でも国を代表するビジネス街や官公庁街ではやはり電線はありません。
むしろ電線があった方が美しいというセンス自慢
記事にもありましたが、むしろ電線があった方が美しいという意見。葛飾北斎の絵に電柱をのせた方がかっこいい!みたいなことをいう人がいますが、じゃあ本当に絵画としてそちらの方が美しいと思ってるのでしょうか。確かにデザイン的にうまくまとまっていて、違和感は少ないですが、もし本当にそういうなら単なる天邪鬼だし、天才葛飾北斎に失礼ではないでしょうか。
美観的には電線なんてない方がいいに決まってる
電柱は建物の邪魔になります。建築を見る場合、電柱はない方がよい。自然でも同じでしょう。そりゃ、電線をテーマに写真をとれば、電線の美しい写真も取れるだろうけど、そんなのはどんな対象物でも同じでしょう。小便を美しい発色に見せることだって、大便を味のあるものにすることだって、プロのカメラマンならできます。
日本の町並みは汚すぎるから、電線が目立たないだけ
日本の町並みは、戦後の無計画な開発のため醜い。もとが醜いから、電線があったってなくって同じというのが現状です。むしろ電線があった方が、カオス感が出てよい、というのもわかります。虫の群衆にぞわっとする感じに近い。そういう感性は確かにわかりますが、それって美しいんでしょうか。魅力的というのならわかりますが、美しいと表現するのは語彙力が低いのではないかと疑ってしまいます。
ヨーロッパの町並みとアジアの町並み、どちらが美しいか
日本に限らずアジアの町並みは雑然としていることが多いです。途上国から発展していくためには、美観は後回しになってしまうのも仕方ありません。もちろん、アジアにはアジアの魅力がある。人の匂いが濃密で、ウチとソトの境界が曖昧。それは日本の商店街も同じでしょう。一方ヨーロッパの町並みは、建築家と行政が一体となって、コントロールしながら作る。秩序がある町並みを作っています。どちらが美しいと思うかは本当に人それぞれなんでしょうか。それは、著名な画家が描いた絵より、子供の描いた落書きの方が美しい、というような感性に似ています。要するに天邪鬼なだけです。
電柱地中化をすれば即座に町並みが美しくなるというわけではない、というのが正しい
電柱地中化をすれば日本の街並みが美しくなるわけではありません。もともと汚いのですから。結局は、美観のためにはどちらも変えていかないといけないのです。
ボロボロのアパートだから掃除しなくてもよい、とはなりません。アパートを立て替えて、掃除もできるのが一番良いに決まっている。
従軍慰安婦像は日本側が主導して設置するべき
従軍慰安婦像、日本側(日本の一部の保守層)が反発すればするほど増えていくことはだれが考えてもわかると思いますし、それゆえ今後もどんどん増えていくのでしょう。慰安婦を忘れない、記憶遺産としての価値は、それに反発すればするほど価値をますのだから。
今回のサンフランシスコ市議会では、教養と良識ある議員の大人の静かなブチギレが見られました。主義主張自体はその人の勝手ですが、それが個人攻撃につながるのは言語道断。
サンフランシスコ市議会で慰安婦像設置に関する公聴会が開かれた際、「従軍慰安婦は全て捏造だ。あの売春婦は嘘つきだ」と元慰安婦の女性を名指しで攻撃した日本人参加者に対して、カンポス市議は「恥を知れ」と四度繰り返した。
— ロジ (@logicalplz) 2017年11月25日
この騒動の後、同市議会は全会一致で慰安婦像の設置を決定した。 pic.twitter.com/fQecrfSi71
東京に慰安婦記念館でも建っていたら…
アウシュビッツはドイツ人が自らの手で博物館化しています。戦争犯罪を主導的に裁き、将来に遺していくのは本来当事者国の役目。日本が積極的に大日本帝国の戦争犯罪を研究し、公開していけば他の国がここまで騒がなかったのでは。日本には、戦争犯罪を学べる施設がほとんどないし、規模も小さい。広島や長崎には立派な施設があるのに。
従軍慰安婦像も日本が主導して設置すべき
従軍慰安婦には日本人も多くいたことは周知の事実でしょう。しかし、従軍慰安婦像の碑文には、従軍慰安婦の被害を出した国として旧植民地に限定されて日本が入っていないものもある。これはおかしい。すべての慰安婦像に日本人慰安婦の名もいれるべきであるし、そのためには日本も慰安婦像に関わっていかなければいけない。また、慰安婦像の碑文の20万人以上に反発する人も多いですが、日本側が主導して慰安婦像を設置すればそこらへんの数字の大小も納得のいくものになるかもしれませんよね。いや、そもそも反発している層は慰安婦そのものを否定しているのか…
戦争犯罪があったからといって、現代の日本人に評価には関係がない
犯罪者の子供は犯罪者ではないのと同様に、大日本帝国がどんな戦争犯罪をおかしていたとしても、現代の日本人の評価が下がるわけではありません。そこを勘違いしているのか、まるで大日本帝国が自分であるかのように歴史学的に定説となっている戦争犯罪を否定するのはアイデンティティの確立に問題があったのではないか、と勘ぐりたくなってしまいます。
東京に正しい歴史認識の慰安婦像を設置しよう
正直アメリカになんで作るの、と私自身も思ってしまいましたが、アメリカにはアジア系の移民が沢山いますので、需要があるのでしょう。それならば、もっとも需要があるのは日本ではないでしょうか。加害者も被害者もいる国として、千鳥が淵近辺にでも誘致したらどうでしょうか。そして、多くの人が関わって正しい歴史認識の慰安婦像にしましょうよ。
碑文には否定派の主張も記載しよう
慰安婦は中韓のプロパガンダで捏造である。本当は民間の娼婦であった、というのが否定派の主張だとしたら、是非その主張も慰安婦像の碑文に入れましょう。それが慰安婦像の価値を高めます。なぜ慰安婦像が必要なのか、自ら証明してくれるでしょう。
ロジ on Twitter: "サンフランシスコ市議会で慰安婦像設置に関する公聴会が開かれた際、「従軍慰安婦は全て捏造だ。あの売春婦は嘘つきだ」と元慰安婦の女性を名指しで攻撃した日本人参加者に対して、カンポス市議は「恥を知れ」と四度繰り返した。 この騒動の後、… https://t.co/bECWRJzU7y"
慰安婦像の設置は慰安婦のためではなく慰安婦を利用した日本人へのヘイト行為なのです。
2017/11/26 06:50
なんで慰安婦像を設置すると日本人に対してのヘイトスピーチになるんでしょうか?
ロジ on Twitter: "サンフランシスコ市議会で慰安婦像設置に関する公聴会が開かれた際、「従軍慰安婦は全て捏造だ。あの売春婦は嘘つきだ」と元慰安婦の女性を名指しで攻撃した日本人参加者に対して、カンポス市議は「恥を知れ」と四度繰り返した。 この騒動の後、… https://t.co/bECWRJzU7y"
サンフランシスコを金で売って中韓のロビー活動、プロパガンダの舞台にしてる奴らの方が恥を知れだわ
2017/11/26 10:14
もう世界では女性の人権問題として捉えられてるんですよ。
ロジ on Twitter: "サンフランシスコ市議会で慰安婦像設置に関する公聴会が開かれた際、「従軍慰安婦は全て捏造だ。あの売春婦は嘘つきだ」と元慰安婦の女性を名指しで攻撃した日本人参加者に対して、カンポス市議は「恥を知れ」と四度繰り返した。 この騒動の後、… https://t.co/bECWRJzU7y"
このやり方が悪いのは事実としても、ではどうしたらよかったのか考えないと… これ叩いてるだけのはてサはどー思ってんのよ
2017/11/26 11:52
日本に作りましょう。
ロジ on Twitter: "サンフランシスコ市議会で慰安婦像設置に関する公聴会が開かれた際、「従軍慰安婦は全て捏造だ。あの売春婦は嘘つきだ」と元慰安婦の女性を名指しで攻撃した日本人参加者に対して、カンポス市議は「恥を知れ」と四度繰り返した。 この騒動の後、… https://t.co/bECWRJzU7y"
私は今回のサンフランシスコ市の対応は不快だし不適当だと思うが。『アメリカ軍内』でレイプが頻出している事が大問題になっている事をどれだけの日本人が知っているだろう。アメリカからすれば現在の問題なのだ。
2017/11/26 12:29
現代にも女性に対する犯罪はおきていますよね。だから慰安婦像も必要になってくる。
なぜ京都大学の立て看板だけが特権的に条例違反して良いのか?
「京大の文化」立て看板、景観条例違反指導で学生ら困惑:朝日新聞デジタル
こちらの記事、年々厳しくなる京都の景観条例に違反するとして、市側が京都大学の公道に面した立て看板をなくしてくれと指導したという記事です。モラトリアムを満喫する学生側が反発するのはわかりますが、ネット上でも部外者の大人に反発する人たちが多く見られました。記事の最後に代表的なコメントをあげて、ひとつひとつ論破していきますが、その前にこのニュースについての解説を簡単にしてみましょう。
そもそも京大の立て看板とはなんなのか
立て看板ってのは、どこの大学にもありますが主にサークルの宣伝だったり、学祭などのイベントの宣伝だったりに使われる、学生手作りの大きな看板のことです。けれど、京大以外のほとんどの大学は大学内の決められた場所に設置しているのに対し、京大は公道に向けて見えるように巨大な立て看板を大量においているのが現状です。また、「京大 立て看板」で検索すると大量に出てくるように、政治的に過激なメッセージや大学批判のメッセージも特徴。遠い昔の学生運動の面影を感じさせるものとして、異様ながらもどこか懐かしい風景を作っていました。
京都の景観条例は観光地に限定したものではない
日本は欧米先進諸国に比べると景観に対する意識が驚くほど低く、法整備もできていないことが特徴です。その中で、京都はさすが世界的な観光都市だけあって、年々景観条例を厳しくしています。京都の繁華街にいくと、新宿や難波のような汚い看板の洪水や超高層ビルが見られないのは、この景観条例のおかげ。茶色いマックも有名ですよね。
つまり、京都市の景観条例は観光地だけに限ったものではなく、市域全体を美しくデザインしていくことを目的としたものです。そもそも欧米では景観は観光のためだけでなく、そこに暮らす市民のもの。市民が誇りをもてる景観を作れば、観光もついてくるものなのです。
もちろん京大の立て看板も例外ではない
当たり前ですが、公道に向けて設置している以上、京大の立て看板も規制の範疇なのでしょう。なぜ京都市内の無数の商業用の看板は細かく規制を守って設置許可を受けているのに、京大だけが特権的に許されるということになるのでしょうか。京大は偏差値が高いから特別なんだ!という差別主義でしょうか。
そもそも立て看板は文化なのか?
数十年の歴史があるから条例違反してても文化!というのなら、行政がやっとの思いで改善してきた歩きタバコやゴミのポイ捨ても文化ですよね。そもそも立て看板自体は京大に限ったものではなく、少し前なら政治的な立て看板もどの大学でも見られるものでした。それを、京大だけが放置してきたから文化!というのはどうなのでしょうか。
マナー違反をして騒ぐyoutuberやDQNと何が違うのか?
よくyoutuberやDQNがマナーに反することをすると炎上しますよね。それと今回のニュースは何が違うのでしょうか。単に好き嫌いの問題では?それじゃあ合理的な説明はできませんよね。
まあ、最後にこのニュースに寄せられたコメントを見ていきましょうか。
「京大の文化」立て看板、景観条例違反指導で学生ら困惑:朝日新聞デジタル
器が小さすぎる。だいたい京大のまわりの景色って、だだっ広い道路なだけでしょ。学生の考えた看板見ながら歩くほうが楽しいよ。バイパスを守るより大学の文化を守ってもらいたい
2017/11/25 22:10
外向けの観光地だけ小奇麗にすればいい!後は汚くても市民の事なんて知らない!ってことでしょうか。
「京大の文化」立て看板、景観条例違反指導で学生ら困惑:朝日新聞デジタル
これ取り締まる意味あるかなぁ。あの辺りそもそもそんな観光地でもないし。むしろ残すべきやと思うが。
2017/11/25 23:13
なんでむしろ残すべきだと思うんでしょうか。その価値は何?
「京大の文化」立て看板、景観条例違反指導で学生ら困惑:朝日新聞デジタル
それがあると誰が困るのか考えれば、看板の内容の主義主張に反対する人が「景観」って名目で撤去させようとしてるようにしか思えない。
2017/11/26 00:47
「京大 立て看板」でググると政治的に過激な立て看板が沢山出てきますが、本来特別にお目こぼしされていたものが、他の商業看板と同じように規制されたら今度は裏の意図ですかあ
「京大の文化」立て看板、景観条例違反指導で学生ら困惑:朝日新聞デジタル
こういう官僚主義を何とかしない限り、自由な発想や柔軟な思考を持つ若者が出てくる訳ないと思うよ
2017/11/26 00:51
あの時代錯誤な立て看板を規制すると自由な発送や柔軟な思考を持つ若者がいなくなるというのは、若者に失礼では。
「京大の文化」立て看板、景観条例違反指導で学生ら困惑:朝日新聞デジタル
- [母校]
いや、芸術的価値も学術的価値もない、ろくでもないもんでも、好きに表現できることが、京大の魅力なので。/別に通行の邪魔にもなってないし、誰かの具体的な利益を侵害しているわけではないのだが。
2017/11/26 00:58
大学内でやればいいでしょう。そして、パチンコや風俗の看板などを含むすべての景観条例に反対しないと筋が通らないのでは。
「京大の文化」立て看板、景観条例違反指導で学生ら困惑:朝日新聞デジタル
数十年も前からやってるものに今更景観を壊すもないもんだ。 てかそんな苦情聞いたことねえよ。サークルのビラ配りをやめさせたときも近隣住民の苦情が云々って言ってたが、その「近隣住民」とやらは実在するのか?
2017/11/26 07:13
数十年前から景観を壊していたとは考えがいたりませんか?
「京大の文化」立て看板、景観条例違反指導で学生ら困惑:朝日新聞デジタル
- [localpolitics]
- [もめごと]
“京大といえども、特別な存在と認識していない” ていうセリフがすごい小役人感
2017/11/26 07:37
当たり前のことを言っているだけですよね。ハハー!京大様は特別でござんす!ってすれば満足なのでしょうか。