「自分の意見」というものの正体
なんか自信がない。
こういう意見がある。自分の意見は自分のオリジナルではないんじゃないかという不安。これは、一度は皆が考えたことがあるんじゃないだろうか。
例えば、小さい頃、親の言っていたテレビのニュースに対するコメントを学校でまるで自分が思いついたかのように言う。そうやって大人ぶるという思い出が私にはある。
じゃあ、今の自分には自分の意見はあるのだろうか。
そもそも意見とはかぶることを前提としている
例えば、ざっくりと安倍政権を支持するか、支持しないかという質問に対して意見を求められたとき、その意見は二つしかない。もちろん、そこにはいろんな理由はあるだろうが、それも大きくまとめればいくつかしかないだろう。つまり、そうなるとすべての人の意見はオリジナルではないということになる。
でも、それはその人の意見ではない、ということにはならない。民主主義において、多数派にしろ少数派にしろ、皆それぞれが多数の他者とかぶっているし、かぶっているからこそ選挙することもできる。
自分の意見=オリジナルの意見、という誤解
つまり、自分の意見はオリジナルである必要はない。世の中には、意見に限らず完全にオリジナルというものは少ない。音楽にしろ、絵にしろ、文学にしろ、すべての文化は模倣からはじまる。模倣から始まり、最後にはオリジナルに到達するかというと、そうでもない。結局のところ、類似性というのは否めないし、その影響を探るのも文化の楽しみ方の一つだ。つまり、自分の意見が他に影響されたものであっても全然良いのだ。
大事なのは、自分の感情にフィットしていること
赤の他人の意見が完全にフィットすることは少ないが、でもそういうこともあるだろう。他人に影響されやすい人は、すぐにそうやって感化されてしまい、そうなると自分の意見のない人になる。自分の意見のない人というのは、すぐに意見が変わる人であったり、誰かの意見をよく理解せずに言っていていたりする。
正しいことに、自分の意見もクソもない
例えば、1+1=2というのは、自分ではなく、遠い昔の誰かが考えたことだから、それは誰かのパクリであるなんてことはない。客観的なことに、自分の意見か誰かの意見かという属性的なことは関係ないのだし大事なのは自分の意見にこだわることではなく、客観的であることではないだろうか。
まとめ
そもそも自分の意見にこだわる必要はなくて、それよりも他人を納得させる、客観的で説得力のある意見であることを意識すればいいのではないだろうか。